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2011/02/18

米光一成、小沢高広 「誰でも作れる電子書籍」

電子書籍リーダーのハードウェア、ソフトウェアが簡単に入手できるようになり、電子データ本を簡単に読めるようになった。印刷本とデータのどちらで購入するかを選択できる、という本屋的な視点に目が行きがちだが、そればかりではない可能性があることを著者は「宣言」している。

米光・小沢対談で小沢高広が言うように、印刷した紙を製本するという物理的な形を取らなくなることで、表現方法が変化する。対談で例を挙げているように、まんがのコマ割りや「ノド」にセリフを書くかどうか、見開きの使い方、など表現の制約条件が変わる。そのことにより、新しい表現方法が生まれる可能性もある。

また、制作や流通の方法にも自由度が増す。米光一成が言うように、自分の「電書」(電子書籍とは呼ばない)データを持ち歩いて街中で交換する、なんていう誰でもが作者であり読者でもある、という世界も実現するかもしれない。

電書フリマというイベントに一度自分も行ったことがあるが、作者と話をしたりして本を選びお金を払う。データをダウンロードするURLが自分のメールアドレスに送信され、そこをたどってダウンロードする、というものだった。

自分が表現したものを簡単にデータ化して読んでもらうことができる。それは同時に誰かが書いたものを簡単に読める、相互に交換もできる、ということ。

出版業界からは、電子書籍「元年」(2010年のこと)で出版社はどうなるのか、という方向の話が多い。しかし、この本にあるように作者と読者との垣根が低い状況になり、表現の場としての「電書」の可能性が広がったという見方が、今まで単なる読者の位置にいた自分たちには重要なのだ。

「電書フリマZ」に行くまで「電書を対面販売してダウンロードって、どういうこと?」と疑問だらけだったのだが、この本で基本的なコンセプトが提示されている。自分の書いたものはコミュニケーションなので、受け取る人に「渡したい」ということであり、そのお礼にお金を渡すイメージ。

電子データにしたことで紙の出版をベースにした制約が緩くなるので、制作途中の状態でも公開してしまう、とか、直前まで制作が可能だったりするとか、「産業としての出版」ではないところでの「電書」は、楽しいことが多いんじゃないかなあ、と思う。

「電書部」の作品の中では、システム構築の打ち合わせSkypeチャットを編集したものが一番のお気に入り。システム構築の「非公式な進行はどうなっているのか?」という自分の疑問に対する回答、として読んだ。「おー、LaTeXなのかぁ。」とか「手作業対応、ありがち。」とか、自分なりに共感できる部分が多い。しかし、この内容が既存の出版社から出せるかというと難しい。同人誌で紙で出すことはできるかもしれないが、それだと作る側が在庫を持たなければならくなるので作る側に負担があるだろう。その点でも「電書」は有益だ。

たとえば、常にUSBメモリかiPodに自分の「電書」作品を入れて持ち歩き、「作者」どうしで交換するというコミュニケーションもあり得る。そう思うと、「書きたいもの」のない自分がちょっと…、ではあるが、文字の人のコミュニケーションが広がる可能性が高まった、と言う点でも、今からいろいろ楽しいことができそうな気がする。

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