ページ

ラベル 川端裕人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 川端裕人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012/05/09

川端裕人 「風のダンデライオン 銀河のワールドカップ ガールズ」

銀河のワールドカップ」を本編だとすると、この本がその前日譚。銀河のワールドカップの登場人物のうち、エリカが主人公。

エリカの所属チームがなくなり、「銀河のワールドカップ」で桃山プレデターに参加するまでの間の物語。

エリカやツバサが年上のチームとの試合をする中で、ときどき、エリカが感じる女子特有の寂しさ。
エリカはまた、ちょっと寂しくなった。本当に女子って中学以降、ほとんど背は伸びないんだなあって、男子と一緒にチームを組めるのは小学生までなんだと、思い知らされる。
こういうちょっとした描写がこの話にも出てきて、作者がこの年代の子供たちを「見守っている」感じが良い。
三週間限定のチーム「桃山ダンデライオン」には、後にプレデターで一緒にプレーする将来のチームメートが人づてのつながりで参加してきたり、別のゲームでプレーしているところを見かけたり。読みながら「あ、この子はここで登場してるのか。」と。

サッカーのプレイの描写力は前作と同様に「今」をしっかり捕えていて、それが、この年代の子供たちの瞬間的な輝きを強調している。この作品でも期限付きで発生したコミュニティで自分にできることをやり、いろいろな発見をしてそこから旅立っていく。子供は自分で道を見つけて進んでいくもの、というのが作者の哲学なのかもしれない。
文庫版の杉江松恋のあとがきが本編の「銀河のワールドカップ」の良い紹介文になっていて、それを読むとまた「銀河のワールドカップ」が読みたくなる。

2012/05/08

川端裕人 「銀河のワールドカップ」

「失業中のJリーガーが子供たちと出会い、チームを作って勝てるようになる」、とこの大枠だけを聞くとよくあるパターンの話になっても不思議じゃない。予定調和な話で終わってしまいそう。

この小説が面白いのは、それぞれの子供の成長していく姿が丁寧に描かれているからだろう。音だけで行う視覚障碍者のサッカーゲームやサッカーのゲーム(8人制のゲーム)の動きが細かく描写されるときにもそれぞれの子供がどう感じているのかがポイントになっている。サッカーをよく知らない自分にも面白く読めた。

子供たちはそれぞれに成長する。自分の努力だけで成長するのではなく、コーチとの相互作用がゴールデンエイジの学習の速さに作用し、チームの中で自分の居場所を見つけていく。そして、それぞれがチームというコミュニティを卒業する。

ストーリーの最後のゲームを読んでいると、登場人物に対して「大きくなったなあ」と知り合いの子供の成長をうれしく思うのと同じような気持ちでじーんとなる。サッカーを知らなくても楽しめるし、サッカーを知っているともっと楽しめるはず。



2009/07/10

川端裕人 「エピデミック」

ある病原菌が地方都市で広がり、その対策のためにフィールド疫学者が活躍する。

何がその疫病の「元栓」なのかを探る「疫学探偵」的な手法、そのための専用ソフトウェアなどの小道具も新鮮な情報だ。出版は2007年10月のことで、SARSや鳥インフルエンザは発生していたが、2009年の新型インフルエンザA(H1N1)よりは前のこと。

インフルエンザA(H1N1)型の新聞取材もこういう実務の話も報道してくれると読んでいて興味が湧くし、ブラックボックス化されてしまいがちな防疫や感染対策に理解が深くなると思う。

疫学的手法で原因を追い詰めていくストーリーの一方で、隣接地域の住民が「自主組織」で町の境界を封鎖して感染が起こっている町からの流入者を追い返すなどの場面もあり、A(H1N1)型のときの地域的なバッシングなどを想起させる。

なかなか原因らしきものに迫れず試行錯誤を繰り返す中で、麻疹に似ているのでは、とふと口にした言葉が報道関係者に広がって「空気感染」におびえたりもする。

この小説のようなチームが運よく原因を突き止めるとは限らない。インフルエンザA(H1N1)なんてウィルスが判明してもワクチンはまだなく、一方でタミフル耐性が疑われるウィルスが確認されたりしている。そもそもインフルエンザワクチンが効くかどうかも今一つ不確かだ。

作品の中で子どもたちのコミューン風な不思議な集団が出てくるところは少し違和感を感じるが、小説としても科学読み物としてもミステリーとしても面白かった。

川端裕人氏は、最初に知ったのがPTA関連の著作や発言だったので、小説家としての川端氏の作品を読むのはこれが初。少し長いけれど最後まで良いペースで読み切った。


2009/05/25

川端裕人 「PTA進化論」感想 part 2

PTAの強制的な枠組みをはずして、保護者が学校にかかわったり自分たちのための活動をする、あるいは教師と保護者の協働作業を行う、ためには何が必要なのだろう。川端氏によれば、
  • 自由な入退会の保証
  • 活動へのかかわりをボランティアとする(PTA自体はそもそもボランティアだが(笑))
  • 子どもの育ちと学びへの貢献
  • 大人たちの成長の場
がその構成要素の主なものだ。

自分としては、入退会が自由になると会員が確定した後に大急ぎで予算を決めて行くのは大変そうだなと、思ってしまう。活動に費用が発生する場合には、どのようにするのが納得感が高いのだろう、と、ついついお金の心配のような瑣末なことに引っかかってしまう。うまくやろうとすると、あれもこれもと細かいことが気になってしまうPTA本部はほかにもいるのではないかと思う。

たとえば、学校で花を育てる活動をするとなると、苗や土などを買うための費用が発生する。現状はPTA会費から支出できているが、PTA会員は少ないが花を育てるボランティアは多い、という状態だとどこから費用を捻出するのかな、と言うようなことが心配なわけで。。

中学校の場合、3年生が必ず卒業し新しい1年生が入ってくるという構造なので、一般的な任意加入の団体よりもそもそも出入りが多くなるという特徴がある。会員の持ち時間は小学校と比較して感覚から言うと半分もない。他の学校でこういう風にやっていますというノウハウがあればぜひ知りたい。他の学校でのやり方がうまくいくとは限らないが、現時点で中学校PTAが体制を換えていこうとすると考えることが多くて時間が不足する。それを他校の経験値で補うことにでもしないと任期中に終えられない。

ボランティア化による「不公平」の発生という話がこの連載に出てくる。
しかし、本部にいて感じるのは、関わる人と関わらない人がいるのは、強制的な組織である現在でも同じ、ということ。毎年、学校にはPTAの委員決めに参加したくない保護者からの電話が数件はあるそうだ。現在の問題は、関わらないという選択はできるのに、関わりたいという選択が強制(義務化)されるせいでなかなかしづらいこと、だ。

ボランティア化による不公平を心配するよりは、強制的組織しかないことによって参加したい保護者が参加できないことの方を解消するべきなんじゃないだろうか。学校内の活動にはある程度の制約は設けた上で自分の特長を生かして貢献できる活動をそれぞれに立ち上げて行うことで成果は上がるんじゃないかと、最近(本部2年目のペーペーなりに)思うようになった。

今年度は自分がPTAにかかわる最後の年でもあるので、ボランティアの運営経験はゼロなのだが、「本当の」ボランティアによる活動をスタートさせてみようと考えて準備をしている。これに応募する人がいるかどうかも不明だ。集まらなければ活動はしないだけのことなのだ。それくらいのゆるい感じの活動の方が参加しやすいだろうと思っている。

2009/05/24

川端裕人 「PTA進化論」感想 part 1

川端裕人氏の「PTA再活用論」のその後、と言ってもいいような連載記事が共同通信から各地方紙に配信されている。14回分の連載を読む機会があったので、感想というか自分の経験も含めたまとめメモとして書いておく。

現在のPTAの「強制感」あふれる組織については、川端氏が書かれている通り。これを書いている2009年度は副会長として中学校PTAにかかわっている自分はこの「強制」を推進する側でもあり以前はくじ引きで成人教育委員会に参加した「強制」に巻き込まれた側でもある。

PTAの委員会を構成する常任委員の決め方にも強制的な感覚はある。うちの学校の場合の決め方こんな風。

常任委員は新三年生の保護者から立候補とくじ引き。立候補があれば文句なしに決まる。残りはくじ引きにより決定。
委員の業務をできない人は参加者全員に対して説明し「免除」を承認されることが基本的には必要。次期本部を指名する指名委員会もこのときに同じやり方で決める。

会則にはこの「くじ引き」までは決まっていないので、会則の変更なしで決め方を変えることはできる。ただ、くじ引きで決まった新常任委員を前にして「今後はボランティア組織に移行します」というのもどうかな、というためらいがあった。また、学校側からは学校を応援する保護者の組織として「PTA」が期待されている部分については「PTAという組織ではない形のこういうことをやりますよ」、と提案して安心してもらう必要はあるだろうがその準備をする時間もないし、というような言い訳をしつつ体制変更は全くできなかった。

川端氏の書いている
一方、学校や行政は、自発的に組織され、自由に入退会でき、それでもみんなが入っている理想的"保護者団体"としてPTAを厚遇する。それが錯覚だと知る人は多いが言葉にされない。無理を重ねて今の社会的位置づけを得て、役員や委員はどんどんきつくなる。
については自分にも記憶がある。小学校で一年だけ副会長をしたとき、入学式(その年は週休2日が始まった年でもあった)で教育委員会の来賓が保護者に向かって「何かあったらPTAに言ってください」と言ったことがある。何気なく出た言葉だったのだろう。しかし、PTAはそもそも学校における問題を保護者に代わって解決する場ではないのだから(保護者が学級PTAなどで培った人間関係が解決に寄与することはあるのは川端氏の連載にもあるとおりだ)この発言はそもそも責任回避ではないのかなあ、と強く違和感を感じたことを思い出した。彼(男性だった)から見ればPTAとはそれほど確固とした組織のイメージがあったと今は理解できる。

現在の単Pの「他から期待された」役割を自分なりにまとめると

  • 集金団体 (市P連、県P、日Pへの上納金をまとめる役割)
  • 互助会(県Pの互助会への加入をまとめる役割)
  • 役所とのインタフェース(市、教育委員会、教育事務所など行政との窓口)

の3つが主だ。これとは別に学級に属する保護者間のコミュニケーションである学級PTAや校外委員会などの地域向けの活動がある、という感じだ。
おそらく人それぞれに感じ方は違うと思う。

2008/11/13

川端 裕人 「PTA再活用論」

2008年度のPTA本部を引き受けることになり、今、世の中ではPTAはどうなっているのかと検索していたとき、川端裕人氏の婦人公論の連載(この著作の元になったもの)を掲載したウェブサイトに行き当たった。(みんなのPTAを探して ブログ版参照)

その連載は、PTAの苦労(もちろん得るものも多いのだが)を、メジャーな雑誌上で明らかにし分析した成果と言えると思う。その連載をもとにして追加取材されたものが本書。連載の終盤で世間の耳目を集めた「和田中のP連脱退提案」など最新の話題も入っている。地域P連の活動の負担感のような、あまり一般には知られていない(けれど大きな)問題も取り上げられている。

川端氏の一貫した主張であるPTAの任意加入は主張されつつも、自動加入のPTAでもボランティアベースの素晴らしい活動ができていることも認めている。そういうバランスの良さが本書のいいところ。

管理人のところでは、「自動加入」であり委員会は「過去を踏襲」している。しかも各委員会の委員は三年生の保護者からくじ引きで決める。そういった「強制されている」感が満載なのが現実だ。

読んでみて、川端氏の言うように「自立した市民が、みずから学んだ成果を共同体に還元する」可能性はあるのだろうか?という問いと、「保護者は今のPTAに悲鳴を上げている」現実を変えなければ早晩、破綻するという予感が強くなった。それとともに「うちの学校だけが特別な状況ではなく、多くの学校が悩んでいる」状況が確認できた安心感もある。

このPTAにある同調圧力・前例踏襲・「義務・負担・強制」は実は現在の社会のどこにでも存在しがちなものだろう。「日本の社会にとって本質的な「何か」を孕んだ巨大な問題系」であると川端氏の書いている通りだ。今の社会の問題であり、次世代に引き継ぐ前に改善するべきものだ。

PTA現役本部役員であり、2009年ももしかしたら本部役員を担当する者として、
「よくぞここまで書いてくれました。パスは受け取りました。(どう転ぶかはわからないけれど)」
と感謝を送りたい。

PTA再活用論―悩ましき現実を超えて (中公新書ラクレ 294)PTA再活用論―悩ましき現実を超えて (中公新書ラクレ 294)
川端 裕人

中央公論新社 2008-10
売り上げランキング : 9375

Amazonで詳しく見る by G-Tools

2008/08/09

藤原和博・川端裕人「バカ親、バカ教師にもほどがある」  子ども化する大人たち

世田谷区立和田中学校の元校長藤原和博氏と、作家で「みんなのPTAを探して」を婦人公論で連載していた川端裕人氏が聞き手の対談により、現在の学校での保護者、教師の問題を語った本。

第1章 バカ親の壁、第2章 バカ教師の壁、第3章 親と子の壁、あとがきにかえて
の4章からなる。最初の2章が対談、後半は藤原氏の文章。

川端氏が保護者であり聞き手である立場から、おそらく意識的に保護者の視点にバリエーションをつけて、校長である藤原氏の話を引き出そうとしており、それは成功している。

教師になって二年目の女性からの
教師になって二年目です。ほかの先生に劣らぬくらい一生懸命に学級運営をし、指導しているつもりです。でも、保護者からは頼りないと思われているようなのです。
先日、宿題のやり方を間違ってきた子がいたので注意すると、放課後、すぐに母親から電話があり、「先生のやり方じゃ心配なのよ!身につかないとたいへんだと思ったから、仕方なく私が教えているのに!」と言われてしまいました。お母さん仲間の間では「ハズレのクラス」とも言われているようです。
この相談に藤原氏は、自らの営業職体験を織り交ぜながら教師が「自分がいちばん勉強する」という姿勢を示すことだ、と答える。
仮に少々頼りなくても、一生懸命学ぼうとしている人なら、きっとお母さんたちも「この先生を育てていこう」と思ってくれるはずです。
これに対して、担任の先生のせいで学校に行きたくないといいだすようなケースは厄災では、と川端氏が話を振ったのを受けて、さらに、

もし、学年全体がほんとうに同じようなタイプの先生ばかりで、自分とぜんぜん合わないようなことがあれば、転校まで考えたほうがいいのかもしれません。しかし実際は、教師が五人くらいいれば、個性はばらけます。(中略)だから中学校では、担任がどうかということについて、生徒が受ける傷は小さい。しかしぼくは、学校生活のなかで、子どもが多少の傷を受けることは、あってもよいのではないかと思うのです。傷を受けることもない、試練もない環境では、子どもの成長は止まってしまうでしょう
実際の学校の現場でここまでのやりとりを校長もしくは他の教師とかわすことは通常の保護者にとってはかなりむずかしいことだ。逆にいえば、これだけの情報を事前に学校から保護者に向かって発信できていれば本書で取り上げられるケースはそもそも存在しないかもしれない。

ひとくくりに「モンスター」と呼ばれている保護者については、本当に無茶な要求をしているのは言われている数の四分の一程度であって、その他は「タイミング」と「コミュニケーション技術」の問題で、先生に余裕がなくて聞いてもらえなかったり、言い方がよくなかったので伝わっていないのではないか、と推測している。

第3章は短いが面白い。藤原氏が提唱する「納得解」、「情報編集力」などについての内容だ。
これからの成熟社会では「万人にとっての正解」を導き出すチカラではなく、個人が自分自身の価値観に照らして納得のいく「納得解」を導き出すチカラが重要となる。私はこれを情報処理力に対して「情報編集力」と呼んでいる。
人生においては、この「クレジット=信任の総量」のレベルを上げていくことが非常に大事だ。その原動力となる両輪が、「情報処理力」と「情報編集力」だと私は考えている。
そして、これら二つのチカラの「基礎」をなすのが、「集中力」と「バランス感覚」だ。この二つは、絶対に子どもに身につけておいてほしいチカラである。(中略)逆に、小・中学校で集中力を身につけられなかった子どもが、大きくなってからそれを身につけたという例を私は知らない。実際、私がこれまで出会った「できる」仕事人たちのなかに、「ビジネスを通して集中力を鍛えました」という人はいなかった。
「あとがきにかえて」では、藤原氏が和田中での施策のいくつかを例にあげながら、
  1. 学校支援のための地域本部の設立
  2. 校長の兼業の許可
  3. 専任のソーシャルワーカーの設置
により、「親はどこへ消えた」「教師はどこへ消えた」と端的に表現される問題を解決できる、と提言している。

対談の中では学校の問題の一つとして避けられないPTAの問題も取り上げられている。これについては「対談を終えて」で川端氏がまとめて書かれている。 PTAをオープンにし、学校協議会を「正常」に機能させるなどの提案は、現在のPTAにかかわっている川端氏ならでは。PTAの自由参加が当たり前となり、選択し責任を負うPTA会員が実現するのはまだ先かもしれないが、この1、2年でPTAの問題点は徐々に表に出てきているのではないかと思う。川端氏のPTAの連載の単行本化も待ち遠しい。
バカ親、バカ教師にもほどがある (PHP新書 515)
バカ親、バカ教師にもほどがある (PHP新書 515)藤原 和博・川端 裕人

PHP研究所 2008-03-15
売り上げランキング : 42330

おすすめ平均 star
star現場はもっとドロドロしてひどいんだけれど
star社会人経験があり本当の大人が教職に就かないと学校現場は変わらない気がした。
star一般的には正しい!だけど。。。

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

2008/06/20

[PTA] 未来のPTA任意参加に向けて

toshiさんのblog「教育の窓・ある退職校長の想い」にてPTAと学校(11) PTAの未来像は、というエントリを拝見した。

管理人はPTA本部の役員として2008年度は参加させていただいたいる。自分の活動日記を別blogに記録してみると、市主催のイベントや学校の行事である程度PTA活動の枠が決まってしまう、ということがわかった。

それで、上記のblogにコメントしたところ、toshiさんから返事をいただいた。

我が地域では、役所の一部といった側面は考えられません。役所もお金がないからでしょう。どんどん切ってきました。家庭教育学級にしろ、PTA・地域・学校の広報紙にしろ、各校PTAの意向が重視されています。
 学校の一部という側面は校長によって、または、慣行としてはあるかもしれません。
 いずれにしても、将来的には、解消されるべきでしょう。各校PTAの意向を追認しての予算措置ならいいでしょうね。
 我が勤務校の予算は、余る傾向にありました。実質サークル活動のほとんどは、自分もちの活動だったからです。
 一応前年の実績で組んでいましたが、あてがはずれることはよくあったようです。
 そう。そう。学校援助費は0円だったです。でも、随時、PTAの皆さんの意向によって、別名目で出してくださいました。これも、定例化していないことの現れだったと思います。

このエントリの中で書かれている2つのポイント「PTA活動の自主性、任意性、多様性を認める」「固定化しない、常に開かれたPTAであること」を取り込むだけでも大きく活動が変わって行く。

川端裕人氏の婦人公論誌上での「みんなのPTAを探して」の連載が4月号で終わり、いずれ単行本化されるだろう。P連の話なども追加されそうな気配だ。地域P連(管理人のところで言えば「市P連」)は、世田谷区立和田中学校が抜けるというニュースがややセンセーショナルに報じられたことで注目を集めた組織だが、単Pの会長にとっては負担を増やす一因でもあるのは確かなことで、この組織を理解することは上記の連載の単行本化には必要だと思う。

筆者のblogでも単行本化のスケジュールは明らかではないが楽しみにしておこう。