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2012/01/01

森田雄三 「間の取れる人 間抜けな人 人づき合いが楽になる 」

コミュニケーションに「間」が大切だというのは著者に限らずよく聞く話である。
「間」は何もしないことではなく、ひらめきのための気づまりな沈黙だったり、あきらめとあきらめが重なった空間だったりする。著者が言うには、逆上がりのようにある日わかるようになる、ものなのだ。
コミュニケーションが「知り合いたいためにできるかぎり本当の自分を伝えること」になってしまったらずいぶん窮屈で居心地の悪い空間ができあがる。そうではなく、普通のコミュニケーションはつまらない話を聞き流す気楽さだったりする。


本の前半では「4日間でイッセー尾形と舞台に立てるワークショップ」での経験からコミュニケーションとは何なのかをさぐっている。

たとえば:
話を聞いている側は、話そのものよりは「話し手の状態」からより多くを受け取っている。
「困っている人」を見ていると目をそらすことがあるがその前に「やさしい気持ちになる」がある。ここでこちらから話しかけず見守ることがコミュニケーションのコツ。
「困る」側は、「困っている自分」を受け入れ、相手のやさしいまなざしをうけいれたときコミュニケーションが生まれる。
役者はこの「困る」訓練を積むのだが、著者が4日間で行うワークショップでは舞台の上で困ってしまえばいいという発想で行われる。
これは、「あきらめる」ことでもあるのだが「あきらめることでコミュニケーションが始まる」
本の後半は、自分の「心」というものをモノとして提示して描写するような自己呈示をなぜ日本人がするようになったかを、常に最高の恋愛を探して一人の人にすごいと思われたい風潮と関係づけて考えている。それは社会全体が「恋愛がすばらしい」という風潮からくると著者はいう。

結局、「心」とか「自分の考え」も実は周りの影響を受けた「借り物」にしか過ぎない。そう思えば、自分は空っぽなんだと思える。「自己主張をしなければ、しゃべらなければ」という時代の要請から自由になること。「間」に腰を据える訓練をするほうが会話がうまくなるし、人を引き付ける近道になる。

著者の開催する4日間でイッセー尾形と舞台に上がるというワークショップ、これは一種の人工の土壇場での「沈黙」や「ひらめき」を鍛えることでコミュニケーション力を引き出す(思い出させると著者は表現)場ともなっている。

イッセー尾形の一人芝居は、社会から強制されている思い込みを抽出して提示し、観客の想像力に任せる。演出家である著者が社会や人のコミュニケーションを観察した結果としてできている演出方法なのだ。

この本のもっとも面白いところはイッセー尾形による「あとがき」。自分の年のせいもあるかもしれないが、なんだかしんみりと読んでしまった。
この本を読むことは、僕が彼から何をもらってきたのかに気づかせてくれる大切な機会となった。