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2009/02/07

玄侑宗久 「禅的生活」

読み始めた最初の章の中で
坐禅で脚を痛めることもなく、本を読んだだけで悟ろうなんて虫のいいことは誰も思っちゃいないかもしれないが、万が一そんな野心のある方への老婆心まで、である。
と言いつつ、「お悟り」とはどういう状態なのか、「お悟り」の状態を体験したと仮定して日常生活はどのように送るべきか、と話が進む。

坐禅というものをしたことが全くないので、本書で紹介された初関(初めて与えられる公案)を少し考えてみたが良く分からなかった。これだけで参禅して何年もかかる道場もあるとのことだから新書一冊でわかるわけがない。「悟り」に至らずにその果実だけをいただくような話なので、さすがにちょっと都合がよすぎるかもしれないのだが。

「お悟り」の状態は人間の脳が普段何気なく使っている脳の機能が働いていない、というか、一時停止しているような状態で「絶対的一者」を感じるらしい。最終的にはその一者さえも消えるような感覚だとも書かれている。だから素晴らしいと言えるのだが、同時に、この状態で通常の社会生活を送ることはできない。だから、著者のお師匠さまは「現実生活では悟りなどありゃせんわい」と言っているとのこと。

では「お悟り」を現実の生活でどう生かすかについて、筆者は

  • 因果に落ちない(過去の自分はすべて今という瞬間に展かれている。そして未来に何の貸しもない
  • ひとつの自己に「住する」ことなく常にチャレンジを繰り返す
  • いろいろな場を「方便」として演じていると意識する
のような方向性を示している。
日常生活に対する心構えについて、無数の抽斗のある巨大な箪笥を使った例えが面白い。
そこにある抽斗すべてが人の可能性だが、日常に開ける抽斗は決まっている。だからチャレンジ精神を持って背伸びして高い抽斗もあけ、遠くの抽斗もたまにはあけてみる。それが修行としての日常である。

禅宗の話なのにいわゆる「宗教」っぽさがなくて読んでいて楽。禅を生活に活かす(もっと楽に生きる思考法を身につける)ためのガイドブックとして書かれているからだろう。

新書の最後の数ページには禅語の索引がある。読んでいる途中でわからなくなった禅語を引けるので便利。

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