一点だけ私たちの世代の長所をあげるとすれば、それは戦後日本の経済的転換(というか、私たちにとっては敗戦)ともいうべきこの事態を、個人史として身に刻み、かつその前後の時代や世代を相対的にながめられるということに集約される
ある状況に安住が許されない世代だからこそ「変化の激しい状況下、個人史の痛みとして社会をながめる者の数が相対的に多いのが、私たちの特徴ともいえる。」と。
文章のスタイルが常に軽いので、深刻な状況分析を読みながらも気持ちが暗くならない。たとえば、活字を読まなくなったことに触れて社会学者であると同時に詩人でもある著者はこう書いている。
私も、詩の分野で片山恭一や、綿矢りさや、金原ひとみみたいな書き手が現れて、現代詩ブームに火を付けてくれれば、そのスリップ・ストリームに入って、少しは私の詩集も売れるかもしれないわね、えへへ、などと思わなくもない。地の文に口語体で自分の思いを混ぜるスタイルが全体のトーンを明るくしている。現代詩は本当に読まれていないらしいが。
著者の世代は、「自己責任」(懐かしい響きだが)を社会に出るところから強制され始めた最初の世代なのかもしれない。そう考えるとこの世代の社会学者が、最近、元気に発言しているということも納得できる。
自分の責任で決められる範囲ではないものを「選びたくない」は選べない状況の中で決定する人生の責任を個人の側に不当に押し付けているさまざま政策の矛盾は、一応安定を得た世代では感じないが、生涯賃金が他の世代よりも3~4%も低いと言われるこの世代では強く感じる、ということもあるのだろう。
この内容にこのタイトルをつけたことで少し損をしている(手に取らない人が増えている)ような気がして少し残念である。
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