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2011/08/29

[PTA] PTAが変われない理由

田中理恵子 「平成幸福論ノート 変容する社会と「安定志向の罠」 」の中で、ある社会が崩壊するときの原因が語られていた。これが、今のPTAに必要な改革ができないことをうまく説明しているのではないか、と思う。

上記の本の中で引用されているジャレド・ダイアモンドの話が興味深い。

彼によれば、社会が破滅的な方向へと向かう場合、1 問題の予期に失敗する、2 予見できた後でも実際に起きた問題の感知に失敗する、 3 問題を感知した後でも解決に失敗する、の大きく三つのパターンがある。

3の場合がPTAに当てはまっているのではないかと思う。このパターンでは、

人類史を振り返れば、支配集団が、ほかの大多数の人々の利害を軽んじて、「合理的な非道徳的行為」を繰り返すことによって、多くの文明が滅んできた。(略)
この場合、損失は党の支配層ではなく、それに従う大多数の人々に広く浅く降りかかる。だが負担する「多数派」一人当たりの損失が小さいため、彼らは損失に気づかないか、気づいたにしても積極的に反対行動を起こそうとは思わない。なぜなら仮に彼らが反対したにしても、得るものは少ないからである。(略)

すぐに思い当たるように、日本の過剰な公共事業投資や、現在争点となっている農業保護などもこれに酷似しているといえる。「大多数の人々の出費で少数の人々に利益を与える方策は、とりわけ小さな集団に“決定的な権力“を授ける特定の種類の民主主義で生まれやすい」とダイアモンドは指摘している。
PTAにおいても同様だ。日Pが「子供に見せたくないTV」など様々なトンデモ政治的なアンケート結果を公表するのがばかばかしいお金の無駄遣いだと一会員が思ったとしても、黙っているのが「合理的な」判断だ。自分が正しいとしても(もちろん正しいのだが)単位PTAから市P連、県P、と意見を通す労力が膨大なのは明白であり、いろんな人にイヤな顔をされながら説明するなんていう暇はないのだ。

単位PTAから始まり、市P連、県P、ブロック、日Pに至る見事なピラミッド構造は、各単位PTA会員ごとの10円(もしかすると値上げしたかも)程度の上納金で運営されている。日Pのやることなすことがばかばかしいと思っても、10円程度をドブに捨てていいやと考えることができれば、黙っていたほうがずっと安上がりなわけである。

PTA強制加入がなかなか改まらないのも同じような理由で、「何年か数千円(単位PTAの会費)をドブに捨てると思って我慢したほうがいいや。」という選択をしてしまう人が圧倒的な多数だろう。自由加入のPTAにするための労力が報われることは絶対にない。会費を払わないという消極的抵抗はありうるが、引き落としをする学校だと雑費と一緒に学校に引き落とされるためお手上げなのだ。

田中理恵子によれば、日本は「積極的選択が高くつく社会」である。「痛みを伴う改革」(小泉的なスローガンではなく真の意味で現状制度をなくして変更する)を選択するよりは、そんなに大変だったらそもそもそっちに行かなきゃいいでしょ、と結婚や恋愛市場から撤退したり、さっさと海外に移住したり、PTAを無難にやりすごしたりする、という消極的選択を行うのが合理的だ。その結果が今の社会の問題となっている。

日Pは子供が少なくなったので会費を値上げしたわけだが、そのときに市P連などではさしたる議論もなしに承諾したと聞く。この場合、少数の特権集団は日P本部のエライ人たちであり、彼らは現状を維持したまま会費を徐々に値上げして自分の代は無事に過ごそうと無意識に行動している。

PTAを中心に地域社会を活性化する、なんていう理想論を言う人もたまにいるのだが、これも、改革と同じ理由でうまくいかない。

結局、強制加入PTAの尊厳死を見守るしかないのだろうな、と思う。